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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

バルカン半島(非EU)

2006年05月22日

欧州最後の新規独立国か


(引用開始)
<モンテネグロ>独立賛成派、勝利 EUの承認条件を達成
 【ウィーン会川晴之】連合国家セルビア・モンテネグロからの分離・独立の是非を問う国民投票を21日に実施したモンテネグロの選挙管理委員会は22日午前、賛成票が55.4%と独立に必要な「55%以上」の規定を上回ったと発表した。
 欧州連合(EU)のソラナ共通外交・安保上級代表は同日午前の会見で「国民投票が整然と行われたことに祝意を表する。投票結果を尊重する」と述べ、独立を認める考えを示した。
 また、選挙監視に当たった全欧安保協力機構(OSCE)も同日午後の会見で、選挙が公正に行われたと認定、最終開票結果を見守る考えを示した。選挙結果が確定すれば、旧ユーゴスラビアを形成した六つの共和国はすべて独立する形となる。(中略)
 開票の結果、賛成は55.4%、反対は44.6%だった。国民投票の仲介に当たったEUは、独立承認の条件を「55%以上の賛成」としており、かろうじて達成した。ただ、結果が極めて小差だったことから、独立に反対したセルビア系住民やセルビアとの融和が今後のカギとなる。
 セルビア・モンテネグロの国家としての継承権はセルビア共和国にあると両共和国の合意で決まっており、モンテネグロは国連をはじめとする国際機関への加盟申請作業に入る。また、在外の大使館や軍隊など両共和国が共有する国有財産の分割交渉を始める。
(毎日新聞) - 5月22日22時33分更新
(引用終了)

・・・・・・
 モンテネグロ共和国は面積1万3千平方キロ、人口62万人で、かつてユーゴスラヴィア連邦を形成し、今はセルビア共和国と国家連合している小国である。面積規模でも、またディナルアルプス山脈の中の山がちな地域という点でも福島県と似ているが、人口は150万人も少ない。このバルカン半島の「福島県」はアドリア海に面している。
 連合相手のセルビアは、面積ははるかに大きい北海道ほどの大きさで人口もモンテネグロの15倍あり、東隣にあるが、南はアルバニア、西はクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴヴィナと国境を接しており、このうちクロアチアとボスニアは旧ユーゴスラヴィアに属した国である。首都は内陸にあるポドゴリッツァで、社会主義ユーゴスラヴィアの時代には大統領の名前をとって「チトーグラード」と呼ばれていた。
 「モンテネグロ」というイタリア語の通称は他称で、かつて海岸部を支配したヴェネチア共和国の船乗りが、この国の松に覆われた山を見て「黒い山」と呼んだことによる。自称ではやはり「黒い山」を意味する「チュルナ・ゴーラ」という。
 僕は何度かセルビアに行ったことはあるが(モンテネグロには無い)、それまで国内の車の多くが「ユーゴスラヴィア」を意味する「YU」の国籍表示ステッカー(多くの国が陸続きのヨーロッパではよく見かける)を貼っていたのが、2003年2月4日の連邦解消・国名変更の直後に行くと早速「SCG」(セルビア・チュルナ・ゴーラの頭文字)とあるステッカーが登場していたのを覚えている。

 モンテネグロも旧ユーゴスラヴィアらしく多民族国家であり、国民のおよそ4割がモンテネグロ人、3割がセルビア人、その他スラヴ系のイスラム教徒1割、アルバニア人5%などとなっている。モンテネグロ人とセルビア人は言語も宗教(ギリシャ正教)もほとんど共通しており、モンテネグロ人を独立した民族と見なすかどうかは議論の分かれる所となっている。
 むしろ多分に個々人の帰属意識あるいは政治的立場による所が大きい。最たる例は旧ユーゴ内戦の際セルビア民族主義の権化のように言われたスロボダン・ミロシェヴィッチ元連邦大統領であり、彼の両親はモンテネグロ人だが、彼自身は自分をセルビア人と思っていた。興味深いことに、母語を尋ねた国勢調査では、憲法で「セルビア語の西方方言」と規定されるモンテネグロ語が2割に過ぎないのに対し、セルビア語と答えた者は6割に達し、上の民族帰属意識調査に一致しない。
 最近はモンテネグロ人は紀元前の先住民族イリリュア人に起源があるとする、スラヴ主義を前面に押し出してきたセルビア人とは別のアイデンティティを求める動きもあるが、起源がどうであれ実態としてセルビア人とほとんど違いはない。このことはセルビア人がモンテネグロにおいて、イスラム教徒の多いボスニアやアルバニア人、カトリックであるクロアチア人との間に経験したような凄惨な民族紛争に至らなかった大きな要因だろう。

 395年、ローマ帝国が東西分裂した際、属州イリリュアに属していた現在のモンテネグロの地は、ほぼ東西ローマ帝国の境界上にあった。西ローマ帝国が分裂から100年もしないうちにゲルマン人の手に落ちて滅亡したのに対し、東ローマ(ビザンツ)帝国はその後1000年の命脈を保つことになるが、モンテネグロも1077年まで断続的ながらおおよそビザンツ帝国の支配下にあった。
 7世紀には中央アジアからアヴァール族がバルカン半島に遷って来るが、その混乱に引き込まれるようにスラヴ族がバルカン半島に移住し、住民のスラヴ化が進んだ。主にビザンツ帝国からの宣教活動でこのスラヴ族はキリスト教徒になった。
 1071年、ビザンツ帝国が小アジアで中央アジア起源のトルコ人王朝であるセルジューク朝に敗れ弱体化すると、バルカン半島のスラヴ人たちは自立を図り、豪族の勢力争いの末セルビア人のデュクリャ公国などが独立する。上の1077年というのはローマ教皇に王として認められた年であるが、バルカン半島は同時代に始まった十字軍と同様に、ローマ教皇(カトリック)とビザンツ帝国(ギリシャ正教)の微妙な競合関係に影響されていた。
 1360年、セルビア王国の分裂によって、モンテネグロにはバルシッチ朝のもとツェタ公国が成立する。しかし小アジアから進出したトルコ人のオスマン帝国が1459年にセルビア王国を属国にすると、ツェタ公国もオスマン帝国の属国となった。だが山がちの難所で旨みの少ないこの地にオスマン帝国の直接支配が及ぶことはほとんど無く、イスラム教徒の支配を潔しとしないセルビア人が逃げ込んだ。この辺りがセルビアとモンテネグロを分かつ始まりになっているようだ。
 1528年、ギリシャ正教のチェティニエ主教を形式的に戴くことでモンテネグロの氏族は連合し、モンテネグロ「国家」が成立する。「ヴラディカ」という称号を名乗った主教はオスマン帝国に対する抵抗運動の先頭に立った。この地位は1697年以降はペトロヴィッチ家のおじ・甥による世襲となった(聖職者は結婚が許されないため)。

 オスマン帝国の支配体制が緩んだ18世紀半ばには、モンテネグロはほぼ独立状態にあった。一方コトル湾など沿岸部は上述のようにヴェネツィア共和国の支配下にあり、ヴェネツィアが1815年にオーストリアに併合されたのちは1918年までオーストリア支配下に置かれることになる。
 1830年代以降、ペトロヴィッチ家のダニーロ2世は豪族同士の対立を押さえ込んで、モンテネグロに近代的意味での国家樹立に成功する。しかし反発も大きく、1860年にダニーロは暗殺された。その跡を継いだのが甥のニコラ1世で、専制統治によってモンテネグロの近代化に努め、ロシアに倣った軍の編成や法律を整備した。
 1877年、バルカン半島のスラヴ民族解放を掲げるロシアとトルコ(オスマン帝国)の間で戦争が勃発すると、モンテネグロはロシア側に加担した。戦争はロシアの大勝に終わり、翌年モンテネグロはヨーロッパ列強から正式な独立を認められた。こうした経緯からモンテネグロは極めて親露的であり、1904年の日露戦争の際は日本への宣戦布告をロシアに打診している。
 この時代、倍増した人口を養うだけの産業に欠けるモンテネグロから、アメリカなど外国へ移住する者も多かった。また隣国セルビアの影響でバルカン半島のスラヴ民族統合を主張する南(ユーゴ)スラヴ主義が台頭、モンテネグロの内政の不安定要因となった。1910年に即位50年を祝ったニコラ1世は王を名乗る。

 1912年にバルカン諸国と連合したモンテネグロはトルコに戦争を仕掛け(バルカン戦争)、アルバニア北部のシュコダルを占領する。しかし親露的なモンテネグロの拡大とセルビアのアドリア海進出を嫌ったオーストリアは強硬に反対し、アルバニアの独立が決まった。この結果に威信を失った国王は、ロシアの圧力もあってセルビアとの国家連合樹立交渉を始める。
 一方でこの戦争はオーストリア及びそれを支援するドイツと、ロシアとの間のバルカン半島をめぐる対立を決定的なものとした。そして1914年、第一次世界大戦が勃発する。セルビアとの連合を交渉中だったモンテネグロは即座に、セルビアを支援するロシアに味方し連合国側に参戦した。しかし1916年に独墺連合軍はセルビア全土を占領、ついでモンテネグロをも占領した。国王は亡命しこの占領は1918年の独墺敗戦まで続いた。
 終戦後、国王派の反対をよそにモンテネグロ議会は戦勝国の列に加わったセルビアとの国家連合を決定、セルビア主導で樹立された連邦国家ユーゴスラヴィア(この国名は1929年以降)に参加することになった。
 ユーゴスラヴィアがドイツとイタリアに占領された第二次世界大戦中(1941年)、イタリアはペトロヴィッチ家を復活させてモンテネグロを独立国としたが(イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の妃はニコラの娘)、イタリア・ドイツ敗北後にユーゴスラヴィアは共産党パルチザンによって解放されてチトー大統領率いるユーゴスラヴィア連邦が復活し、この独立モンテネグロ(実態は傀儡だが)は短命に終わった。

 1980年のチトー大統領の死去、そして80年代末の東西冷戦構造の終結は、モザイク状の連邦国家であるユーゴスラヴィアにも影響を及ぼした。1991年にはスロヴェニア、クロアチア、マケドニアが連邦から独立、さらに翌年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナもこれに続いた。しかしモンテネグロは連邦に留まり、セルビアと新ユーゴスラヴィア連邦を形成した。旧ユーゴでの激しい民族紛争でもモンテネグロは一貫してセルビアを支持し、セルビアと共に国連による経済制裁を受ける。
 一方で1991年にモンテネグロ首相に就任したミロ・ジュカノヴィッチは、連邦内にありながらセルビアと一定の距離を保とうとした。セルビアと同じディナールではなく、闇市場で流通していたドイツ・マルクを正式な国内通貨とし、2002年のユーロ導入後はユーロに切り替えており、セルビアのコソヴォ自治区と共に、ヨーロッパ連合(EU)の外にありながらユーロを正式通貨としている。なお2006年には1913年以来となる独自の切手発行も決まっている。
 1999年、セルビア共和国コソヴォ自治区でアルバニア人とセルビア軍との衝突が激化し大量の難民が出ると、北大西洋条約機構(NATO)軍は人道的介入と称しセルビアを空爆したが、この問題への無関係を主張したモンテネグロも空爆対象となった。セルビア民族主義を煽っていた同国のミロシェヴィッチ政権は2000年に倒された。
 2003年、EUからの圧力もあってモンテネグロはセルビアとのユーゴスラヴィア連邦を解消、国名をセルビア・モンテネグロとする緩やかな国家連合に移行した。この際モンテネグロは3年間独立を凍結する合意がなされ、それが明けた後の今回の国民投票となった。既にセルビア正教会とは別のモンテネグロ正教会が復活し、2004年には独自の国歌と国旗を復活させている。また2005年には旧ユーゴ内戦中にモンテネグロ兵がクロアチア攻撃に参加したことを謝罪し、同国に(多分に象徴的な意味合いだが)賠償金を支払った。
 モンテネグロはボーキサイト鉱山などがあるものの産業に乏しく、国内総生産の15%はアドリア海での観光業によるものである。国連による経済制裁時代はイタリアなどとの闇交易による収入も大きく、ジュカノヴィッチ首相はじめ閣僚数名が人身売買や密売に関与した疑惑が噂されている。
 


2006年05月13日

アルバニア


 アルバニアはバルカン半島南西部にあり、面積2万8千平方キロ(青森・秋田・山形を合わせた程度)、人口は310万人の比較的小さい国である。国土の西側はアドリア海に面しており、その対岸はイタリアになる。一方国土の多くは山地であり、東はかつてユーゴスラヴィア連邦を構成していたセルビア・モンテネグロとマケドニア、南はギリシャと接している。
 隣国セルビアのコソヴォ自治区やマケドニアには多くのアルバニア系住民がおり、記憶に新しいところでは1999年のコソヴォ紛争に代表される民族紛争の舞台となった。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族には属しているが、セルビア語など周辺のスラヴ語族と異なり独自のグループを形成する。また周辺諸国はギリシャ正教が多いのに対し、イスラム教徒が国民の7割を占めている。この独特な国は、いかにして形成されたのだろうか。

 アルバニアの地が史料に登場するのは紀元前6世紀頃、ギリシャ人がアドリア海沿岸にアポロニア、エピダムノス(デュラキウム)などの植民都市を建設したときである。しかし内陸の山岳地帯には青銅器時代から先住のイリリュア人がおり、その独自の文化を保持していた。イリリュア人は海賊行為で共和制ローマの交易網を脅かしたが、紀元前229年にローマ軍はアポロニアなど沿岸部の征服に成功した。
 ローマはアポロニアを拠点に南隣のギリシャ征服を進めて紀元前146年に完了し(同年宿敵カルタゴも征服)、地中海世界の覇権と共にヘレニズム文化の後継者たる地位を不動のものとした。アルバニアの地はローマ帝国支配下ではマケドニア州に編入されていた。なお「アルバニア」という国名は他称であり、自称ではその民族出自伝説に基づいた「鷲の国」を意味する「シュチペリア」というが(その国旗も赤地に黒の双頭の鷲をあしらっている)、石灰岩山地の多い同国に因んだ「白」を意味するラテン語の「アルブス」から「アルバニア」という国名が生まれたという。本来これは固有名詞ではなく、カスピ海西岸にもアルバニアと呼ばれる地域があった。
 4世紀末からローマ帝国が衰亡し民族大移動の時代になると、バルカン半島にはゲルマン族やスラヴ族が続々と移動してきたのだが、その波は山がちなアルバニアの地には及ばなかったようで、イリリュア人以来の文化があまり変化せずに続いたらしく、冒頭に述べた独特のアルバニア語やその文化が形成された。さらに11世紀には北東から牧畜民ワラキア人が移住してきて混合したという。彼らは統一国家というものをもたず山地で隔された地域ごとに部族に分かれており、名目上はビザンツ(東ローマ)帝国(~12世紀)、ブルガリア王国(10世紀及び13世紀)、エピルス(13世紀)、セルビア王国(14世紀)、ヴェネツィア共和国(14世紀)など周辺国の支配を認めていたが、独立自尊の気風を保った。

 そんなアルバニア人たちが初めて団結して立ち向かったのが、アナトリア(小アジア)を本拠にバルカン半島への進出を始めた、イスラム教徒にしてトルコ人の王朝・オスマン帝国の脅威だった。周囲が次々とオスマン帝国の支配に組み込まれていく中、アルバニア人たちは元オスマン帝国総督だったジェルジ・カストリオティの指導の下、25年にわたりオスマン帝国に頑強に抵抗した。彼はトルコ人に「イスケンデル・ベイ(アレクサンデル侯)」と呼ばれたが、これが訛った「スカンデルベグ(アルバニア語ではスカンデルベウ)」の名で知られ、今もアルバニアの国民的英雄とされている。彼の病死(1468年)後アルバニア人の抵抗は鈍り、オスマン帝国の支配を許すことになる。
 オスマン帝国の支配はこののち実に450年続くことになるのだが、その間アルバニア人はオスマン帝国支配下のバルカン諸民族の中ではほとんど唯一、イスラム教に積極的に改宗して現在に続いている。オスマン帝国の官僚として取り立てられる者も多く、傭兵から成り上がってエジプト総督になり(1803年)、ついには王朝を樹立して西洋式近代化に努めた梟雄ムハンマド・アリなどは、その好例だろう。
 オスマン帝国の支配体制が因循固陋なものになるにつれ農民への収奪が激しくなり、その領内では反乱が頻発する。18世紀から19世紀前半にかけて、アルバニア南北の山岳地帯で何度か独立が試みられ一定の成果を収めたが、結局オスマン帝国に降っている。

 19世紀後半以降、バルカン半島に野心を持つロシアの支援で周辺諸国が次々とオスマン帝国から独立していく中、アルバニアはなおもオスマン帝国の支配下にあったが、1912年にエサド・パシャ率いる反乱が起き、内政が混乱していたオスマン帝国を揺さぶった。隣接するバルカン諸国(ブルガリア、セルビア、ギリシャ)は好機とみて連合してトルコに戦争を仕掛け、バルカン半島にあるその領土を分け取りにした(バルカン戦争)。同時期にリビアでオスマン帝国に勝利していたイタリアは、アドリア海の対岸にあたるアルバニアの領有を主張したものの、翌年締結されたブカレスト条約でアルバニアの独立が認められ、ドイツ貴族が招かれて形式的な君主となった。
 息つく間もない翌1914年、バルカン半島情勢悪化によって第1次世界大戦が勃発する。1915年にドイツ・オーストリア連合軍はセルビアを攻撃してその全土を占領したが、セルビア軍はアルバニア山中を通ってアドリア海に脱出した。それを追った独墺連合軍はアルバニアに侵入してほぼ全土を占領する(1916年1月)。独立間も無いアルバニアにはなすすべも無く、1918年の独墺の敗北まで占領下にあった。
 戦後の1921年、戦前に画定された独立アルバニアの国境が列強や周辺国によって確認された。アルバニア系住民が多いコソヴォ地方は戦勝国セルビア(ユーゴスラヴィア)領内に留まることになり、これがのちのちセルビアとの紛争の種になっていく。

 独立したアルバニアはしかし、大戦中に国王が逃亡したこともあり内政は各地域の豪族による勢力争いで混乱を極め、統一国家の態をなさなかった。ようやく北部出身の豪族であるアフメッド・ゾグーが権力を掌握して1925年に大統領に就任し、1928年には王制を宣言する。首都は国土の中央にあるティラナに遷された。
 しかし農業や牧畜以外ろくな産業もなかったアルバニアはたちまち財政が破綻し、1932年以降は隣国イタリアからの無利子借款で辛うじて存続する状態になった。もちろんこの援助は善意によるものではなく、ベニト・ムッソリーニ率いるファシスト党が支配するイタリアは、エチオピアを侵略して国際連盟から脱退するなど露骨な対外拡張を進めており、イタリアに経済的に従属したアルバニアは1939年4月に併合されてしまう。
 ナチス・ドイツと同盟していたイタリアは1940年に枢軸国として第2次世界大戦に参戦する。当初のドイツの華々しい軍事的成功に焦ったムッソリーニは、1940年10月、アルバニアを拠点に中立国・ギリシャに侵攻するが、撃退されてアルバニアの三分の一を逆占領される失態を演じた。翌年4月のドイツによる電撃戦でバルカン半島全域がドイツ・イタリアの支配下になり、国境が変更されコソヴォ地方はイタリア領アルバニアに編入された。しかし1943年に連合軍のイタリア本土上陸でファシスト政権が崩壊し、ドイツがバルカン半島の占領を引き継いだ。なおアルバニアに居たユダヤ人はアルバニア人たちの助けもあってナチスの迫害を免れ(コソヴォは除く)、戦争中にユダヤ人が増加したヨーロッパで唯一の地域となった。
 1944年になってドイツ軍を逐ったソヴィエト連邦(ロシア)軍がバルカン半島に迫ると、本国との分断を恐れたドイツ軍は撤退した。その空白の中、雑多な対独抵抗組織のうち共産ゲリラを率いていたエンヴェル・ホッジャ大佐が戦勝国ソ連の承認・支援を得てアルバニアに臨時政府を樹立した。こうして戦後、東欧諸国に並んでアルバニアにも共産党の一党独裁体制が誕生することになる。

 ホッジャ率いる人民戦線政府が支配するアルバニアは当初、大戦中ホッジャを支援した隣国・ユーゴスラヴィアの衛星国となっていた。しかし1948年にソ連の容喙を嫌ったユーゴスラヴィアが共産主義陣営からの独立路線をとり始めると、ホッジャはユーゴと絶ってソ連に接近し、ソ連も経済援助でこれに応えた。アルバニアは1955年にソ連が西側に対抗して設立した軍事同盟であるワルシャワ条約機構にも加盟している。
 ところがソ連で独裁者ヨシフ・スターリンの死後に権力を掌握したニキータ・フルシチョフがスターリン批判を展開すると(1956年)、共産主義陣営内部のもう一つの大国を自負する中国との対立が起きる(その背景には中国による核開発もあった)。フルシチョフは1959年にアルバニアを訪問してその繋ぎ止めを図ったが、東欧諸国でスターリン主義者が失脚するのを見たホッジャは、自らの保身もあって1961年にソ連と断交、中国に接近してその援助を得ることになる。ソ連圏との間にあるユーゴスラヴィアが自立状態であればこそソ連との断絶も可能だったわけだが、ユーゴともソ連とも断交したこの頃から、アルバニアは鎖国状態になっていく。
 中国の指導者・毛沢東の遊撃戦理論に影響されたホッジャは、ソ連を仮想敵として国内各地に60万もの地下壕を建設して武器を全土に分散配置し、また極度な自給自足経済を志向して、鎖国の中で極めて特異な防衛・支配体制を構築した。1967年には中国の文化大革命に影響されて「無神国家」を宣言し、イスラム教のモスクやキリスト教の教会は倉庫にされた(国内の宗教対立を抑え込む狙いもあった)。1968年にソ連がチェコスロヴァキアの改革運動(プラハの春)を阻止すべく軍事介入したときも、アルバニアは中国にならってソ連を「修正主義者」と非難し、ワルシャワ条約機構から正式に脱退した。しかし1976年に毛沢東が死んで中国でも毛沢東主義の見直しが始められるや、中国の援助も停止され、アルバニアはいよいよ完全に鎖国化する。
 こうしてホッジャは1985年のその死(享年78歳)まで、40年にわたる独裁体制を維持することが出来たのである。こうした大国を手玉に取る外交や特異な支配体制は、北朝鮮のそれを連想させる。

 ホッジャの死後、1982年から大統領職にあったラミズ・アリアが後継指導者になった。しかし1989年、共産主義陣営の盟主・ソ連の弱体化に伴い東欧諸国では共産党政権がドミノ倒しのように倒されていった。隣国ユーゴスラヴィアでも民族主義の高まりで分裂への動揺が起きる中、鎖国状態にあったアルバニアにもこの波は避けられず、翌年の末になって複数政党制が認められ、ようやく民主化が始まった。1991年には最初の自由選挙が実施されている。
 しかし特異な体制だったアルバニアにとって、自由化への改革は大混乱の幕開けであった。窮迫したアルバニアの経済難民が老朽化した船に満載されて隣国イタリアに不法入国しようとする姿が連日報じられたりしたが、その最たるものが1997年のネズミ講騒動である。詐欺まがいのネズミ講での損失(なんと国民の半分が被害を受けた)と政府の対応の遅れに憤激した民衆が、ホッジャ時代の名残りで各地に集積されていた武器を手に蜂起、アルバニアは無政府状態に陥った。イタリアやトルコなど南欧諸国がOSCE(全欧安保機構)の枠組みで治安回復のため多国籍軍を編成し派兵、ようやく騒ぎは収まった。現在は経済成長が進んでいるとはいえ、なおも良好と言い難い(一人当たりGDP2120ドル、失業率14%)。
 1998年にはセルビアからの分離とアルバニアとの統合を主張するコソヴォ自治区のアルバニア人組織の活動が活発化し、セルビア軍治安部隊による弾圧が激化した。大量のアルバニア系住民が難民化してアルバニアに逃げ込み、人道介入を名目としたNATO(北大西洋条約機構)による空爆でセルビア軍がコソヴォから撤退する翌年まで続いた。今は国連管理下に置かれているコソヴォをめぐる紛争は、現在も続いている。
 アルバニアは鎖国を脱し各国と外交関係を樹立したが、NATOやEUへの加盟は議論にのぼっていない(NATOへの加盟は1992年にいったん拒絶された)。歴史的・文化的背景からトルコと親しく、友好条約を締結している。



 2007年02月02日
 コソヴォ独立か

 コソヴォ(セルビア名コソヴォ・メトヒヤ、アルバニア名コソヴァ)は現在も建前上自治州としてセルビア共和国(旧ユーゴスラヴィア)に属しているが、実態は1999年以降セルビア支配下を離れて国連決議1244に基づく国連暫定統治下にあり、北大西洋条約機構(NATO)指揮下の国連平和維持軍が駐留し、通貨もユーロである。ドイツではコソヴォ産の安いワインをスーパーで見ることがある。
 内陸にあって山と盆地からなるコソヴォの面積は1万平方キロ(岐阜県なみ)で、人口は難民が多く不安定ながら190万人(岡山県と同程度)と推定されている。住民の9割はアルバニア人であるが、4%程の少数派としてセルビア人もいる。ただセルビア全体で見ると逆にアルバニア人は少数派であり、コソヴォのアルバニア人がセルビアから分離独立しようとしたことが1999年のコソヴォ紛争に繋がった。アルバニア人にイスラム教徒が多いのに対し、スラヴ系のセルビア人はキリスト教セルビア正教徒であり、言語も大きく異なっている。
 さらに面倒なことに、こうした民族分布と国境は合致しておらず、コソヴォの西隣にはアルバニア人の国がある。コソヴォのアルバニア人たちは当然、自分たちが形式上属するセルビアよりも、同族の住む隣国アルバニアに親近感を持つことになる。
 こうしてヨーロッパの片隅にあるコソヴォは20世紀も末に激しい民族対立の舞台となったのだが、セルビア人側にも、アメリカをはじめとする強大なNATO軍を敵に回してでもこの地を手放したくない歴史的経緯があった。

 「コソヴォ」という地名は、スラヴ系言語でクロウタドリ(ドイツ語でAmsel)を意味するKosが変化したといい、Kosov-という語頭をもつ地名は東欧からロシアにかけ点在する。民族対立は地名の起源論にまで及んでおり、アルバニア人からはイリリュア語で「高原」を意味するという説が提出されている。またセルビア語での名称「コソヴォ・メトヒヤ」の「メトヒヤ」(コソヴォ西部にあたる)は「教会の所有地」を意味するギリシャ語で、中世にセルビア正教会の領地が集中した歴史に由来する。アルバニア人は「メトヒヤ」という地名を嫌って使わない。
 イリリュア人というのは、古代ギリシャやローマの史書に言及される古代民族で、アルバニア人は自らの祖先とみなしている。紀元前2世紀以降、この地はローマ帝国の支配下に組み込まれていったが、山がちな地形ゆえにローマ文明化があまり進まずイリリュア人の伝統が維持され、後世のアルバニア人へと繋がっていったというが、定かではない。
 4世紀末にローマ帝国が東西分裂した際、この地は東ローマ(ビザンツ)帝国の領域に属した。ローマ帝国の弱体化に相俟って、6世紀にはコソヴォを含むバルカン半島全域に東方からスラヴ族が流入したが、これがセルビア人の祖先となった。セルビア人とアルバニア人のどちらが先にコソヴォに居たかという論争は不毛ではあるが、政治的には意味を持っている。

 キリスト教化したスラヴ人の天地となったバルカン半島は、ビザンツ帝国の支配下にあったが、10世紀頃に現在のセルビア南西部(サンジャック)にセルビア人の君侯国が成立した。13世紀初頭、ネマニッチ家のシュテファン2世はハンガリーの援助でビザンツ帝国から自立して王を名乗ったが、これがセルビア王国の始まりである。同時に彼の弟サヴァは初代のセルビア大主教となった(セルビア正教の起源)。
 セルビア王国は14世紀半ばのウロシュ4世シュテファン・ドゥシャンの時に最盛期を迎え、1345年に皇帝を名乗ってバルカン半島に覇を唱えた。コソヴォはこのセルビア王国の中心部となり、経済・交易・産業や政治の中心というばかりではなく、1346年に大主教から格上げされたセルビア総主教座はコソヴォのぺチに置かれ、セルビア人の精神的支柱となる。なおこの時代にアルバニア人の存在も記録されており、彼らは山岳の牧畜民だったようである。
 ところがウロシュ4世の死後王国は分裂、折りしも小アジア(現在のトルコ)から勢力を拡大したオスマン帝国の侵略を受け、1389年に会戦した。この戦い自体はセルビア侯ラザルとオスマン皇帝ムラト1世の双方が死ぬというしまらない結果に終わったが、この戦いののちセルビアはオスマン帝国の属国となったことから、キリスト教と民族防衛の戦いとして後世のセルビア人に記憶され、その古戦場であるコソヴォは「民族の聖地」扱いされることになる。

 1455年にセルビアはオスマン帝国の直轄地になった。オスマン帝国の北方への拡大に伴ってセルビア人はコソヴォから北に拡散したが、同時にアルバニア人も流入するようになった。アルバニア人は支配者であるトルコ人と同じイスラム教に改宗したため重用され、元来が牧畜民で移動的な生態であったことも手伝って、各地に移動したのである。
 優勢だったオスマン帝国は1683年にウィーン包囲に失敗、オーストリアの反撃が始まった。オーストリア軍がコソヴォに迫るとセルビア人は解放軍としてこれを歓迎したが、オスマン帝国は1690年に撃退に成功した。オスマン帝国の復讐を恐れたセルビア人4万人がコソヴォからオーストリア領内に逃亡したといい、この頃アルバ二ア人がコソヴォの多数派になったと思われる。
 オスマン帝国の衰退は続き、ロシアとの戦争に敗れた1878年にはセルビアの独立を許すことになったが、セルビア人にとって民族揺籃の地であるコソヴォは、なおオスマン帝国の領内に留まった。国境の移動に影響され、かつて南北交通の要衝だったコソヴォは鉄道建設ルートから外れてしまい、近代化から取り残されてゆくことになる。またセルビア領内のアルバニア人が追放されてコソヴォに移住したため、アルバニア系住民の割合が増大した。
 1912年、セルビアなどバルカン諸国は同盟してオスマン帝国に宣戦し、バルカン半島に残存するその領土を分け取りにした。セルビアは念願のコソヴォを併合したが、その地の住民の多くは今やアルバニア人であり、更にややこしい事に、同時にアルバニアがオスマン帝国から独立していた。セルビア軍による虐殺やセルビア語教育の強制が行われたため、亡命するアルバニア人も多かった。

 第一次世界大戦中の1915年にセルビアはオーストリア・ドイツ連合軍に占領されたが、コソヴォのアルバニア人はオーストリア軍を歓迎したため、1918年に大戦がオーストリアの敗北で終わると、戻ってきたセルビア軍による復讐が始まった。ハサン・プリシュティナらはアルバニア人抵抗運動を組織し、アルバニアやトルコに逃亡する者が相次いだ。「ユーゴスラヴィア」と改称したセルビアは、官吏をセルビア人で固め公用語をセルビア語のみとするセルビア化政策を採ったが、うまくいかなかった。
 第二次世界大戦中の1941年、ユーゴスラヴィアはドイツとイタリアに分割占領された。ドイツは占領を円滑に行うためユーゴ内部の民族対立を利用した。コソヴォはアルバニア(当時はイタリア領)に統合されたが、1943年にイタリアが連合国に降伏するとドイツがコソヴォ占領を引き継いだ。ドイツはアルバニア人義勇兵からなるナチス親衛隊部隊を結成し、セルビア人やユダヤ人を迫害した。
 一方でユーゴとアルバニアのパルチザンによる対独抵抗運動が活発化した。コソヴォのアルバニア人パルチザンはアルバニアのエンヴェル・ホッジャの指揮下で活動したが、そのためユーゴのパルチザンを率いるチトーとの間で紛争となった。ホッジャとチトーの協議の結果、コソヴォは戦前と同じくユーゴスラヴィアに属することが合意された。1944年、ユーゴスラヴィアはドイツの占領から解放され、社会主義国となる。

 コソヴォは再びユーゴスラヴィア連邦内のセルビア共和国の一部とされ、アルバニア人の抵抗運動が再燃した。社会主義ユーゴスラヴィア政府は戦前の民族政策に回帰したため、亡命を希望するアルバニア人が跡を断たなかったが、アルバニアの国家指導者ホッジャはユーゴとの友好のためコソヴォ難民の受け入れを禁止したので、およそ30万人のアルバニア人がトルコに亡命した。
 ユーゴスラヴィアのコソヴォ政策が変化したのは、1966年の中央政治局での保守派失脚以降で、1974年の新憲法でコソヴォはセルビア内の自治州としての地位を認められ、アルバニア語は公用語の一つとして学校での教育も認められるようになった。その一方で、ユーゴ内で最貧だったこの地域から流出するセルビア人も多かった。
 1980年、チトー終身大統領が死に、また計画経済の行き詰まりが明らかになると、ユーゴスラヴィア連邦の各共和国では民族主義が台頭する。1987年にはセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア共和国大統領に選出され、1989年3月にセルビア議会はコソヴォの自治権を停止した。さらに同年6月、コソヴォを訪問したミロシェヴィッチはコソヴォの戦い600周年記念演説を行ってセルビア人の民族意識を煽り、コソヴォはセルビアの不可分の領土であると宣言した。この演説は、この後10年続く旧ユーゴ内戦の狼煙となった。
 連邦を構成する各共和国が、セルビア人主導の連邦を嫌って次々と独立する中、コソヴォでも住民投票でセルビアからの独立支持派が圧倒的多数を占めた。イブラヒム・ルゴヴァ(のちコソヴォ暫定大統領)を指導者とする独立運動は、内戦に陥った旧ユーゴにあって平和的なものだった。

 旧ユーゴで最も凄惨な内戦となったボスニア内戦は、アメリカなどの圧力で1995年に一応の終結を見たが、コソヴォ独立の先行きは見えず、首都プリシュティナでは学生デモが頻発した。さらに過激化したアルバニア人組織(コソヴォ解放軍UÇKなど)は、ボスニアからコソヴォに移住したセルビア人を襲撃したり、政府施設へのテロ攻撃を行った。これに対しセルビア政府も特殊部隊を投入、アルバニア系一般市民が虐殺される事件が起きる。
 1998年には難民が23万人にのぼり、国連やEUなど国際社会が介入する事態になった。国連はコソヴォからのセルビア軍の撤収を要求する決議1199を行うがセルビア側は内政干渉として拒否、事態はさらに先鋭化した。翌年1月にNATOとミロシェヴィッチはフランスのランブイユで直接交渉を行ったが決裂した。コソヴォからの撤退とNATOによる進駐・治安維持は、セルビアにとって国土占領に他ならなかった。
 国連による武力行使容認決議は、安保理常任理事国であるロシアと中国の反対で成立しなかったため、NATOは決議を経ないまま同年3月、人道的介入を理由にセルビアに対する空爆に踏み切った。空爆は6月にセルビア軍がコソヴォから撤退するまで続き、セルビア全土とコソヴォでおよそ1万人が死亡した。なおこの戦争は、NATOに属するドイツにとって第二次世界大戦後初の参戦であり、その是非を巡る議論が巻き起こった。
 コソヴォは国連の暫定統治下に置かれ、NATOを中心とする国連軍(KFOR)が進駐している。しかし今や圧倒的多数派になったアルバニア人と少数派に転落したセルビア人の衝突は現在まで度々起きており、将来的にアルバニアとの統合が問題化する可能性もある。また経済的に旧ユーゴでも最貧地域(一人当たりGDP1500ドル)であることが示すように、破壊されたインフラの整備、国際援助や外資頼みの経済構造、莫大な貿易赤字、5割近い失業率、エネルギー供給の不足、頻発する汚職や組織犯罪、高い若年人口率とヨーロッパ最低の識字率などの問題が山積している。念願の独立を達成したとしても、その前途は多難であろう。


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